あとがき
一見何事もなかったかの様に戻りつつある町内も
出来て2年目の新しい裏通りに出れば
日に日に道路の陥没が増し危険だ
大通りばかり復旧が進む中 行政への願いも虚しく町内は後回しなのだろう
仕事の合間に災害各地を見た
見慣れた町は何処もがれきの山と道路しかなく
そこがかつて何があった場所だったのかさえ迷うくらいだ
写真は長年住んだほど近い場所で数枚撮っただけで
後は心の残像に過去と現在が刻まれた
マスコミの報道や記載された写真 YouTubeの動画だけで感じとった災害とは違い
津波の去った粉塵が舞う荒れたがれき地に立った想いは言葉にならず
こみあがる気持ちを抑える事は出来なかった
松の木も流され すっかすかになっている
横たわっている松の木の根っこは横に伸びているだけで
深く根を下ろしてはいないんだ 防風林としては役立つが津波には弱かった
色々な人から聞く話しは誰1人として同じ事はなく
被害の酷かった場所ほど見た物や生き延びる為の出来事がこの世の話しとは思えず
胸が苦しくて成りませんでした
被災はしましたが何もかも無くした方々から比べると
すぐに一歩を踏み出せる環境があるだけ 私そして家族は恵まれているのです
今回の震災にて沢山の人達から力を貰いました
避難所職員に支援いただき 行政に ボランティアに助けられ
ご近所と協力し合い 兄弟に支えられ 親戚に手を指し伸ばされて
見ず知らずの方に励まされ 沢山の物資を提供下さった企業のお陰で命が繋ぎました
ありがとうございます
日曜日の朝市や夏の花火大会で有名な名取市閖上
ある通りに一本の柱が立っていた
そこには以前水害のあった水位のレベルが刻まれていたはず
凄いと何となく覚えていたがそれが洪水だったか津波だったかは記憶が定かではないが
2階の部屋まで飲み込む高さなのに ここが住宅街でいいのかと思っていた事に気付く
期日も書いてあったが確か昭和30年代だった様な気がする
地震の歴史を調べて見ると さすが地震大国日本あるはアルは
その中で1933年(昭和8年)3月3日昭和三陸地震を見つける これかもしれない
当時最大震度5弱のM8.1が起こり津波が発生している
それ以前の37年前 1896年(明治29年)6月15日にも震度3にもかかわらず
5分間続いた揺れは同じような津波被害をもたらしていた明治地震
やっと深刻に思った昭和三陸地震4ヶ月後 住宅の建築禁止エリアと罰則金を定めるが
17年後には建築基準法が施行され県から市町村に主体が変わった為
うやむやになってしまって又同じ被災を今回も繰り返している
今やインターネットが普及し情報が溢れている
国や行政機関に頼らず若林区霞の目にある浪分神社や
長町の蛸薬師神社の様な伝えを残さなくてはならないだろう
間もなく訪れるだろう宮城県冲地震
そして今から30〜37年 もしくは100年サイクルでやってくるかも知れない
地震や津波のカウントダウンはもう始まっている
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